台湾へ出張に行った話。
旅行ではない。
仕事である。
だから本当は、浮かれている場合ではない。
資料を確認する。
先方とのやり取りを考える。
言葉の温度を間違えないようにする。
必要なことを、必要な形で伝える。
今回の仕事は、翻訳・通訳がメインだった。
日本語学校からの依頼で、英日翻訳(詳しく言うと、英日中翻訳のトライアングル : Trilingual translation)に関わる仕事。
つまり、音楽絡みの話ではない。
ギターケースを持って台湾へ行ったわけでもない。
アンプを担いで空港に立ったわけでもない。
でも、こういう仕事の時ほど、なぜか耳が忙しくなる。
空港に着いた時の音。
街の車の流れ。
看板の文字。
店先から流れてくる声。
言葉と言葉の間にある、少しの間。
私は仕事で来ているのに、耳だけは勝手にリハーサルを始めている。
職業病なのか。
ただの落ち着きのなさなのか。
たぶん、両方だと思う。
台湾で仕事をしていて感じたのは、言葉の受け取り方がやわらかい人が多いということだった。
もちろん、全員がそうだなどとは言えない。
そんな大きなことを言えるほど、私は台湾を知り尽くしているわけではない。
でも少なくとも、私が仕事で接した方たちは、日本に対して好意的な印象を持っている方が多かった。
そして、日本語を理解しようとしてくれる姿勢があった。
こちらの日本語が少し硬くなっても、すぐに切り捨てるのではなく、待ってくれる。
英語から日本語へ、あるいは日本語を別の感覚へ移していく時に、その「待ってくれる感じ」に何度も助けられた。
翻訳や通訳の仕事では、そこが本当に大きい。
言葉というのは、意味だけでは渡らない。
勢いだけでも渡らない。
相手が少し待ってくれる。
こちらも少し待つ。
その間に、ようやく言葉が落ちる場所を見つける。
ギターで言えば、音を出す前の一拍に似ている。
ここで前に出るのか。
少し引くのか。
強く言うのか。
柔らかく置くのか。
仕事をしているのに、結局いつも音楽のことを考えてしまう。
困ったものだ。
でも、翻訳も通訳も、たぶん音楽に近いところがある。
相手の呼吸を見て、こちらの呼吸を合わせる。
一方的に鳴らすと、うるさくなる。
遠慮しすぎると、何も届かない。
ちょうどいい場所を探す。
それは、言葉でもギターでも同じなのかもしれない。
仕事が終わると、やはり食べる。
これは仕方がない。
台湾に来て、何も食べずに帰るほど、私は立派な人間ではない。
台北の夜市にも行った。
夜市の空気は、独特だった。
明るい。
人が多い。
匂いが近い。
店の声が前に出てくる。
日本の縁日とも違う。
商店街とも違う。
もっと生活に近いところで、食べ物が鳴っている感じがした。
台湾の夜市では、ルーローハンや臭豆腐など、いろいろな小吃が紹介されている。
小吃という言葉の響きもいい。
小さく食べる。
でも、小さくない。
そういう感じがする。
台北の夜市で食べたルーローハンは、妙に残っている。
丼というほど大げさではない。
でも、小さな器の中にちゃんと生活がある。
甘辛く煮込まれた肉が、ご飯に乗っている。
派手ではない。
でも、箸が進む。
こういう味は怖い。
ものすごい衝撃があるわけではないのに、あとから思い出す。
「また食べたいな」と、ふとした時に出てくる。
ギターで言えば、前に出すぎないバッキングみたいなものだ。
主役です、という顔はしていない。
でも、それがないと曲の景色が決まらない。
若い頃は、食べ物でも音楽でも、わかりやすく強いものに惹かれた気がする。
大きな音。
派手なフレーズ。
一発で覚える味。
もちろん今でも好きだ。
でも最近は、あとから効いてくるものに弱い。
食べている時より、帰ってから思い出すもの。
聴いている時より、家に帰る途中で鳴り出すもの。
ルーローハンは、私にとってそういう味だった。
それにしても、ご飯の上に乗った肉というものは偉い。
難しい説明をしなくても、だいたい人を黙らせる。
会議で揉めたら、全員に小さなルーローハンを配れば少し平和になるのではないか。
いや、たぶんならない。
でも、少しだけ空気は柔らかくなる気がする。
鼎泰豊にも行った。
小籠包で有名な店である。
ああいう店に行くと、つい構えてしまう。
有名店だ。
ちゃんと味わわなければ。
何か気の利いた感想を持たなければ。
そう思っている時点で、だいたい負けている。
実際に食べると、そんな理屈はすぐ消える。
熱い。
うまい。
気をつけないと口の中をやられる。
感想が急に小学生になる。
でも、それでいいのだと思う。
うまいものを食べた時、人はそんなに賢くいられない。
小籠包を前にして、評論家みたいな顔をしても仕方がない。
中から出てくるスープに集中する。
落とさないようにする。
火傷しないようにする。
人生で大事なことは、意外とそういうところにある。
落とさない。
焦らない。
熱いものは熱い。
ギターにも言える。
勢いだけで突っ込むと、だいたい痛い目を見る。
阿城鵝肉にも行った。
私は最初、アヒル肉の記憶として話していたのだけれど、店名の「鵝肉」はガチョウ肉のことらしい。
こういうところで、自分の記憶のチューニングが少しズレているのがばれる。
怖い。
いや、でも本当に、肉料理としての印象が強く残っていたのだ。
やわらかくて、味が濃すぎず、でもちゃんと残る。
「これは何の肉だったか」と後から確認するあたりが、実に私らしい。
食べている時は感動している。
帰ってから名前を間違える。
おじさんの記憶力は、たまにエフェクターの接触不良みたいになる。
でも、味の輪郭は残っている。
言葉より先に、身体が覚えている。
これも少し音楽に似ている。
曲名を忘れても、イントロが鳴った瞬間に身体が反応することがある。
コード進行は思い出せなくても、あの空気だけは戻ってくることがある。
食べ物も、たぶんそうなのだ。
名前より先に、湯気が残る。
店の明かりが残る。
一緒にいた人の声が残る。
そして、あとからじわっと戻ってくる。
ただし、台湾の食べ物を全部受け止められたわけではない。
臭豆腐。
あれは、私にはまだ少し早かった。
台湾の小吃として大事な存在なのはわかる。
夜市の空気の中にあるものだというのもわかる。
わかるのだが、鼻が先に会議を始めてしまう。
「これは行くのか」
「本当に行くのか」
「代表、今回は撤退でよろしいでしょうか」
満場一致で撤退だった。
好きな方には本当に申し訳ない。
でも、苦手なものは苦手なのだ。
ギターの音色にも好みがあるように、匂いにも好みがある。
そこを無理に乗り越えようとして、美談にする必要はない。
私は臭豆腐の前で、静かに負けた。
それでいい。
負けを認めるのも、おじさんには必要な技術である。
台湾出張は、音楽絡みではなかった。
翻訳と通訳。
日本語学校に関わる、言葉の仕事だった。
でも、帰ってきてギターを触ると、少しだけ台湾の空気が指に残っているような気がした。
夜市の音。
ルーローハンの湯気。
小籠包を落とさないように集中していた自分。
阿城鵝肉で食べた肉料理の記憶。
臭豆腐の前で、鼻により正式に撤退を命じられた瞬間。
そして、仕事で接した台湾の方たちのやさしい言葉。
日本語を理解しようとしてくれる姿勢。
こちらの言葉を待ってくれる感じ。
急かさず、受け取ろうとしてくれる空気。
あれは本当にありがたかった。
通訳や翻訳は、正確さが大事だ。
そこは絶対に外せない。
でも、正確さだけでは足りない時がある。
この言葉を、どのくらい強く出すのか。
どのくらい柔らかく置くのか。
相手の表情を見て、少しだけ言い方を変えるのか。
そういうところに、人と人の仕事がある。
それはギターにも似ている。
同じコードでも、強く弾くのか。
少し後ろに置くのか。
伸ばすのか。
切るのか。
音の意味は、指だけでは決まらない。
その場の空気で変わる。
言葉も同じなのだと思う。
台湾での仕事は、私にそのことをまた少し思い出させてくれた。
もちろん、出張だから疲れる。
移動もある。
気も張る。
おじさんの身体は、ホテルに戻ると急に正直になる。
昔なら、夜市のあとにもう一軒行けたかもしれない。
今は、部屋に戻った瞬間に靴下を脱ぐだけで、なぜか一仕事終えた気分になる。
情けない。
でも、それも含めて今の自分なのだと思う。
若い頃の旅は、外へ外へ向かっていた。
今の出張は、外へ行ったはずなのに、最後は自分の中へ戻ってくる。
何を見たのか。
何を食べたのか。
誰と言葉を交わしたのか。
どこで少し緊張して、どこで少しほどけたのか。
そういうものが、あとで音に混ざる。
直接ギターには関係ない。
でも、関係ないものほど、あとで音に入ってくることがある。
台湾で食べたご飯も、仕事で交わした言葉も、夜市で負けた臭豆腐も、たぶんどこかに残っている。
おじさんギタリストの音というのは、そういう余計なもの込みでできているのかもしれない。
余計と言いながら、案外そこが大事だったりする。
今日もまた、何事もなかったような顔でギターを持つ。
何事もなかったわけではないのに。
台湾のご飯はおいしかった。
台湾の人たちの言葉は、やさしかった。
臭豆腐は、やっぱりまだ難しかった。
そして私は、帰ってきてからも、少しだけあの空気を鳴らしている。
たぶん、そういうことなのだと思う。
