「Morohira Music&Magic」のYouTubeチャンネルで、諸平さんの曲に、
私のnoteの記事を載せて動画としてアップしていただいた。
曲は『かけがえのない日々』。
YouTube上でもそのタイトルで公開されている。
最初に知った時、正直、嬉しいより先に少しドキッとした。
ついこの間、北千住でお会いしたばかりなのだが…
いや、嬉しい。
それはもちろん嬉しい。
でもその前に、
「え、読まれてる?」
「変なこと書いてないよな……」
「調子に乗ったこと書いてなかったか?」
みたいな、妙な汗が出た。
自分でnoteに書いておきながら、読まれると焦る。
何を言っているのか自分でもよくわからないけど、たぶん文章を書いている人は、少しだけわかってくれると思う。
ステージに立っている時より、読まれていると知った時の方が妙に緊張することがある。
ギターなら、間違えても音はその場で消えていく。
でも文章は残る。
しかも、あとから自分で読み返して、
「ここ、ちょっと熱すぎないか」
「この一文、俺、何を背負ったつもりだったんだ」
となる。
深夜に書いた文章ほど危ない。
冷蔵庫の奥に忘れていたタッパーを朝に開けるような怖さがある。
諸平さんの曲に、自分の記事が重なる。
これは、思っていた以上に不思議な体験だった。
音楽に文章が乗る。
文章に音楽が寄り添う。
普通に考えれば、私の記事の方が後から乗せてもらっているだけなのだけど、見ていると、なんだか自分の言葉まで少し違って見えてくる。
普段、自分が書いているnoteは、だいたい生活の延長にある。
ギターの話をしているつもりでも、実際には身体の話だったり、年齢の話だったり、記憶の話だったりする。
最近は特にそうだ。
若い頃みたいに、音だけで突っ走れる感じではない。
気持ちは突っ走りたいのに、身体が後ろから裾を引っ張ってくる。
「ちょっと待て」
「今日はそこまで行くな」
「明日に残せ」
そう言われている感じがする。
それでも、スタジオに入る。
ギターを持つ。
音を出す。
昔みたいに、すぐに“あの感じ”にはならない。
指も、耳も、身体も、少しずつ読み込みに時間がかかる。
パソコンの古い外付けハードディスクみたいに、最初だけ妙にカリカリ言っている。
でも待っていると、ちゃんと中にデータは残っている。
消えてはいない。
ただ、開くのに時間がかかるだけだ。
そういう今の私にとって、『かけがえのない日々』というタイトルは、少し刺さり方が違った。
若い頃なら、もっと大きな意味で受け取っていたかもしれない。
夢とか、友情とか、青春とか、そういう広い言葉で。
でも今は、もう少し細かい。
昔、一緒に音を出したこと。
誰かの曲を聴いて、胸の奥が少し動いたこと。
スタジオの帰り道に、妙に黙ってしまったこと。
何気ない会話の中に、ずっと残る言葉があったこと。
そういう小さなものが、あとになって自分を支えている。
当時は気づいていなかった。
その時はただの日常だった。
でも、あとから振り返ると、
「あれがあったから、今も弾いているのかもしれない」
と思う瞬間がある。
諸平さんと出会えたことも、私にとっては本当にそういう出来事の一つだ。
大げさに言えば、今までの軌跡そのものが、そこへ繋がっていたような気もする。
いや、そこまで言うと少し盛りすぎかもしれない。
でも、そう思いたくなるくらいには、大事な出会いだった。
最近は、音楽以外のことでも忙しい日々が続いている。
仕事のこと。
家のこと。
人とのやり取り。
やらなければいけない細かい用事。
一つ一つは大したことがないように見えても、積み重なると地味に効いてくる。
若い頃は、忙しくても夜中にギターを持てば、そこで一度リセットできた。
今は、ギターを持つ前に少し座り込む時間がいる。
「よし、弾こう」
と思うまでに、なぜかワンクッション必要になる。
そのワンクッションが年々厚くなっている気がする。
クッションというより、もはや座布団二枚くらいある。
でも、それでも音楽は戻ってくる。
忙しい日々の中で、ふっと曲を聴いた時に、気持ちが元の場所に戻ることがある。
自分が何者なのか、少し思い出す。
私はやっぱり、ギターを弾く人間なのだと思う。
ものすごく上手いとか、特別な何かを成し遂げたとか、そういう話ではない。
ただ、ギターを抱えると、少しだけ自分の輪郭が戻る。
音の置き場所を探しているうちに、気持ちの置き場所も見えてくる。
このコードは前に出すのか。
ここは少し引くのか。
リズムの重心をどこに置くのか。
そんなことを考えているうちに、日常で散らかったものが少しだけ整っていく。
もちろん、全部が解決するわけではない。
ギターを弾いたからといって、請求書が消えるわけでもないし、予定が減るわけでもない。
むしろ弾いたあとに、
「あ、あれ返信してない」
と思い出すこともある。
現実はなかなかしぶとい。
でも、それでいいのかもしれない。
音楽は現実逃避ではなくて、現実に戻るための手すりみたいなものなのだと思う。
少なくとも今の私にとっては、そういう存在になっている。
『かけがえのない日々』という言葉を見た時、少し考えた。
かけがえのない日々というのは、特別な日だけを指すわけではないのだと思う。
大きなステージ。
忘れられないライブ。
誰かとの劇的な出会い。
そういうものも、もちろん大切だ。
でも実際には、もっと地味な日々の方が残っている。
練習後に飲んだ缶コーヒー。
スタジオの床に落ちていたピック。
アンプの前で首をかしげた時間。
帰り道に、何となく無口になった車内。
そういう、誰にも説明しにくい場面が、年を取ってから急に顔を出す。
そして、
「ああ、あれもちゃんと自分の中に残っていたんだな」
と思う。
諸平さんの曲に、自分の記事を重ねていただいたことで、私は自分の過去まで少し照らされたような気がした。
正直、照れくさい。
かなり照れくさい。
でも、嬉しい。
自分が書いてきたものが、誰かの音楽と並んで流れる。
そんなことがあるなんて、昔の自分に言っても信じないと思う。
たぶん若い頃の私は、
「いやいや、俺はギター弾く側だから」
とか言って、変な顔をする。
でも今なら少しわかる。
弾くことも、書くことも、たぶん同じ場所から出ている。
うまく言えないけれど、どちらも“残したい”のだと思う。
音として。
言葉として。
その時の自分の呼吸として。
完璧ではない。
格好よくもない。
少しズレている。
でも、そのズレごと残したい。
今はそう思っている。
諸平さんと出会えたこと。
その音楽に触れられたこと。
自分のnoteを読んでいただいていたこと。
そして、その曲の中に自分の記事を置いていただいたこと。
それらは、私にとって本当にかけがえのない日々の一部になった。
これまで過ごしてきた時間が、無駄ではなかったと思わせてくれる。
そして、これから過ごしていく時間に対しても、少しだけ自信をくれる。
大きな自信ではない。
胸を張って歩くようなものでもない。
どちらかというと、忘れ物を確認しながら玄関を出るくらいの自信だ。
財布ある。
鍵ある。
スマホある。
ギターは……まあ、心の中にある。
そんな感じでいい。
今日も忙しい。
明日もたぶん忙しい。
それでも、どこかでまた音に戻る。
言葉に戻る。
そして、少しだけ自分に戻る。
かけがえのない日々は、たぶんそうやって続いていく。
派手ではないけれど。
ちゃんと、鳴っている。
