先日、昔よく演奏していた曲を久しぶりに弾いた。
別に忘れているわけではない。
キーも分かる。
コードも分かる。
次にどんな音が来るのかも、頭の中ではちゃんと鳴っている。
昔から私は、楽譜を丸暗記して弾くタイプではなかった。
セッションで知らない曲が始まっても、
周りの音を聴いていれば、ギターでもベースでも入っていける。
これは若い頃からずっとそうだった。
だから、この日も何も心配していなかった。
何度も演奏してきた曲である。
「はいはい、これね」
くらいの気持ちでギターを持った。
実際、普通に弾ける。
ところが、しばらく弾いているうちに妙な感じがした。
なんか違う。
間違っているわけではない。
音も合っている。
でも、自分の記憶の中にある「あの感じ」と少し違う。
そこで昔の録音を聴いてみた。
「ああ、そうか」
音の入り方が違う。
切る場所も少し違う。
自分では同じように弾いているつもりなのに、昔の私はもう少し前へ出ていたり、逆に妙なところで待っていたりする。
場合によっては、
「こんなところで、こんな指使ってたのか」
というのも出てくる。
試しに昔と同じようにやってみる。
できる。
できるのだけれど、
なんだか昔より面倒くさい。
これが困る。
昔はこれを普通にやっていたはずなのだ。
昔できなかったことなら、まだいい。
初めて弾くフレーズなら、
「ああ、これはちょっと練習しないとな」
で済む。
知らない奏法なら覚えればいいし、弾きにくければどう弾くか考えればいい。
できないところから始まるのだから、こちらにも心の準備がある。
ところが昔できたことには、それがない。
何しろ証拠が残っている。
録音もある。
場合によっては映像まである。
映像を探してみた。
いた。
若い私が。
そして腹立たしいことに、普通に弾いている。
ものすごく普通の顔で。
こちらが今、
「この部分、昔どうやってたんだ?」
と確認しているところを、
昔の私は、
スッ。
と通過していく。
待て待て。
そこだ。
もう一回。
動画を戻す。
スッ。
もう一回。
スッ。
……ちょっと腹が立ってきた。
もちろん映像なので、文句も言わず何度でも弾いてくれる。
そこだけは若い私も素直である。
再生速度を落として見てみる。
なるほど。
運指も分かる。
なぜそこでそのポジションを選んだのかも、だいたい分かる。
「ああ、そうそう。こう弾いてたな」
となる。
別に特殊なことをやっているわけでもない。
現在の私も同じように弾いてみる。
弾ける。
ただ、
昔ほど身体に馴染んでいない。
指を置く場所は分かっている。
音も分かっている。
でも昔は考えもしなかったところに、ほんの少し引っかかる。
頭と耳は、
「それで合ってます」
と言っている。
身体だけが、
「これ、本当に毎回やるんですか?」
みたいな顔をしている。
会社だったら、一度三者面談を開いたほうがいい。
こういう時、若い頃なら意地になったと思う。
昔と同じように弾けるまで繰り返す。
一度できたものができないなんて許せない。
そんな感じだった。
でも今は、少し違う。
何度か弾いているうちに、
「これ、別に昔と同じ指使いじゃなくてもいいんじゃないか」
と思い始める。
今の身体なら、こっちから入ったほうが自然だ。
昔と同じ場所で音を切らなくてもいい。
ここは少し後ろに置いたほうが、今は気持ちいい。
昔は勢いのまま通り抜けていたところで、今はほんの少し待ちたくなる。
試してみる。
普通に弾ける。
ちゃんと曲になっている。
というより、不思議なことに、今の耳にはそっちのほうがしっくり来たりする。
もちろん、
「今の私のほうが素晴らしい」
なんて話ではない。
そんなに都合よく歳は取らせてくれない。
速さなら、昔のほうが楽だったものはいくらでもある。
体力もそうだ。
昔はウォーミングアップなんて、ほとんど考えなかった。
今そんなことをしたら、ギターより先に身体からクレームが来る。
ただ、昔とまったく同じ道を通らなくても、その音には行ける。
そんなことが少しずつ分かってきた。
高速道路を降りて、一般道を走っているようなものかもしれない。
時間は少しかかる。
信号にも引っかかる。
途中でコンビニにも寄る。
でも、昔は見えなかった景色があったりする。
……コンビニは余計か。
昔よく演奏していた曲というのは、やっぱり少し厄介だ。
知らない曲なら、知らないなりにその場の音を聴けばいい。
セッションで突然知らない曲が始まっても、キーやコードの流れを聴きながら入っていける。
そこには、
「昔の私はこう弾いていた」
という余計な比較対象がいない。
ところが、何度も演奏してきた曲には、それがいる。
「これは知ってる」
この一言が危ない。
曲はもちろん分かっている。
音も分かっている。
普通に弾くこともできる。
でも昔の録音を聴いたり映像を見たりすると、
「あれ。私、こここんなふうに弾いてたっけ」
というのが出てくる。
音そのものより、音の入り方だったり、切り方だったり、ちょっとした指の運びだったり。
同じ曲を弾いているのに、昔の自分の演奏が少しだけ他人の演奏に見える。
そして同じようにやってみると、
「これ、昔はもっと楽にやってなかったか?」
となる。
映像を見る。
昔の私は、特に難しいことをしている顔でもない。
普通に弾いている。
それがまた腹立たしい。
こっちは今、動画を止めて、
「ちょっと待て。今のもう一回」
とやっているのに、
昔の私は何事もなかったように次の小節へ行ってしまう。
まあ動画なので、戻せば何度でもやってくれるのだけれど。
50代になって、昔の自分に昔の弾き方を教わるとは思わなかった。
しかも先生、説明が一切ない。
ただ弾くだけである。
昔できなかったことには、
「できなかったところから始める」
という気楽さがある。
でも昔できたことには、
「できるはずです」
という、頼んでもいない保証書が付いてくる。
しかも保証期間は、とっくに切れている。
たぶん身体というのは、ずっと同じ楽器ではないんだと思う。
指も変わる。
力の入り方も変わる。
疲れ方も変わる。
そして耳の使い方も変わった。
音を置きたい場所も少し変わった。
昔なら全部弾いていたところで、今は一音置かないこともある。
昔と同じ音を知っているのに、そこまで行く道が少し変わっている。
だから昔の自分を完全に再現する必要もないのだろう。
……と、頭では分かっている。
分かってはいる。
今日も昔の映像を止めたり戻したりしながら、私は昔の自分の演奏をコピーしている。
考えてみれば、妙な話だ。
何十年もギターを弾いてきて、
今さらコピーしている相手が昔の自分なのである。
画面の中の私は、相変わらず涼しい顔で弾いている。
少し腹が立つ。
そして、ほんの少しだけ羨ましい。
でもまあ。
昔の私よ。
そんな顔して弾いていられるのも今のうちだ。
お前、あと30年弾いてみろ。
