🎸 おじさんギタリストシリーズ#72 台湾では、なかなか予定どおりに帰れない 編

    台湾での仕事が続いている。

    新北市の板橋にも、ずいぶん慣れてきた。

    最初の頃は、知らない街を歩くたびに少し緊張していたのだが、最近はそんなこともなくなった。

    むしろ、余計なところにまで目が行くようになってしまった。

    これが、あまりよろしくない。

    仕事が終わって宿に戻る。

    ただそれだけのことなのに、なぜか途中でいろいろなことが起きる。

    いや、正確には、私が勝手にいろいろなことを起こしている。

    50代にもなって、落ち着きがない。

    本人としては、いたって落ち着いているつもりなのだが。笑


    台湾のコンビニは、私を帰してくれない

    仕事帰り、飲み物でも買おうと思ってコンビニに入る。

    台湾にもセブンイレブンやファミリーマートがたくさんある。

    日本でもおなじみの看板なので、なんとなく安心する。

    ところが、店内に入ると事情が変わる。

    まず、あの匂い。

    茶葉蛋(チャーイエダン)。

    お茶や香辛料で煮込んだ卵である。

    台湾のコンビニではおなじみの食べ物なのだが、これがなかなか存在感を放っている。

    飲み物を買いに来ただけなのに、卵が気になる。

    しかも、その横には日本では見かけないお菓子や飲み物が並んでいる。

    パッケージを眺める。

    手に取る。

    裏を見る。

    戻す。

    別の商品を手に取る。

    また戻す。

    完全に不審な中年男性である。

    店員さんからすれば、何かを探しているようにも見えるだろう。

    実際、探している。

    何を探しているのかは、自分でもよくわかっていない。

    仕事では、限られた時間で判断を求められることもある。

    音楽の現場でも、アレンジの方向性を決める時には、それなりに素早く考える。

    ところが、台湾のコンビニでは、お茶一本を決めるのに時間がかかる。

    ギターの音色は選べる。

    コードの響きも選べる。

    なのに、ペットボトルのお茶が選べない。

    しかも、ようやく会計を済ませて店を出たところで気づく。

    あれ?

    最初、何を買いに来たんだっけ。

    飲み物は買った。

    それ以外のものも買った。

    まあ、目的は達成している。

    たぶん。笑


    英語は訳せる。でも台湾のメニューは読めない

    食事の時も、なかなか面白い。

    私は普段、英語の翻訳や通訳を仕事にしている。

    だからといって、あらゆる外国語に対応できるわけではない。

    当たり前である。

    ところが台湾では、ちょっと厄介なことが起きる。

    漢字が読めてしまうのだ。

    いや、正確には、読める気がしてしまう。

    これが問題なのである。

    例えば、食堂のメニュー。

    牛肉麵。

    これはわかる。

    牛肉の麺だろう。

    小籠包。

    もちろんわかる。

    魯肉飯。

    これも知っている。

    よし、なかなか順調だ。

    ところが、知らない料理名が出てくると急に怪しくなる。

    文字を一つずつ眺める。

    漢字の意味を考える。

    組み合わせから料理を想像する。

    そして、結局わからない。

    英語なら辞書を引けば、だいたい見当がつく。

    しかし、料理名というのは厄介だ。

    文字の意味がわかっても、実際に何が出てくるのかは別問題なのである。

    これは翻訳の仕事でも少し似ている。

    単語の意味がわかったからといって、文章の意味がわかったことにはならない。

    ……などと、もっともらしいことを考えている場合ではない。

    昼飯を決めたいだけなのだ。

    隣の席の人が食べているものを見る。

    おいしそうだ。

    あれにしようかな。

    でも、メニューのどれなのかわからない。

    ここで素直に聞けばいい。

    写真を見せてもらう方法だってある。

    なのに、なぜか自力で解読したくなる。

    翻訳者の妙な意地である。

    そして最終的には、知っている料理を注文する。

    負けた。

    何に負けたのかはわからないが、少し負けた気がする。

    でも、おいしい。

    ならば勝ちでいいか。笑


    台湾のスクーターは、全員ドラマーなのか

    板橋の街を歩いていると、スクーターの多さに驚く。

    台湾では珍しい光景ではないのだが、信号待ちをしているスクーターがずらりと並んでいる様子は、何度見てもなかなか壮観だ。

    そして信号が変わる。

    一斉に走り出す。

    ブォォォォォン。

    これがまた、いい感じに重なるのである。

    いや、何がいい感じなのか。

    普通の人なら、交通量が多いな、で終わる話だと思う。

    ところが私は、つい音を聴いてしまう。

    エンジンの低い音。

    少し高い音。

    発進するタイミング。

    それぞれ微妙に違うのに、全体としてひとつの大きな音になる。

    なんだか、ドラムのフィルインみたいだ。

    おっ、今の入り方はよかったな。

    あっちは少し走っているな。

    いや、スクーターなんだから走っていて当然である。

    我ながら、何を考えているのだろう。

    交差点で一人、勝手にリズムを取っている50代。

    あまり人に見せたい姿ではない。

    しかも、こういう時に限って頭の中でベースまで鳴り始める。

    ブォン、ブォン、ブォォン。

    気づけば、勝手に曲のイントロを作っている。

    仕事が終わったというのに、耳だけ残業している。

    しかも無給だ。

    台湾のスクーターの皆さん。

    勝手にセッションに参加させてしまって、申し訳ない。笑


    台湾の朝ごはんに、私の予定が負けた

    夜だけではない。

    朝もなかなか危険である。

    台湾の朝食は、実に魅力的だ。

    蛋餅(ダンビン)。

    豆漿(ドウジャン)。

    蘿蔔糕(ルオボーガオ)。

    ほかにも、気になるものがいろいろある。

    朝は軽く済ませよう。

    そう思って朝食店に入る。

    ところが、メニューを見ていると、あれも食べたい、これも気になる、となってしまう。

    これはどういうことなのだろう。

    日本にいる時は、朝食を簡単に済ませる日も多い。

    ところが台湾に来ると、急に朝ごはんに対して積極的になる。

    朝から食欲だけが若返っている。

    身体のほかの部分も、少し見習ってほしい。

    蛋餅を食べる。

    おいしい。

    豆漿を飲む。

    これもいい。

    蘿蔔糕も気になる。

    せっかくだから、食べてみたい。

    「せっかくだから」

    旅行先や出張先では、実に危険な言葉である。

    財布の紐も、胃袋の判断力も緩くなる。

    そして、朝から満腹になる。

    さて、仕事へ行こう。

    ……少し動きたくない。

    若い頃は、朝からギターを抱えてスタジオへ向かうことにも、それほど抵抗がなかった。

    今は朝から大根餅を食べて、椅子から立ち上がるタイミングを考えている。

    ずいぶん変わったものだ。

    まあ、ギターの腕前と朝食の量には、特に関係がない。

    ないはずだ。

    そう信じたい。笑


    板橋で迷子になったのは、道ではなく私の好奇心

    そして、一番厄介なのが寄り道である。

    仕事を終え、宿へ戻る。

    スマートフォンには地図がある。

    道もだいたい覚えている。

    だから迷子になる心配は、あまりない。

    ところが、途中で気になる店を見つける。

    ちょっと覗いてみる。

    その先に、また別の店がある。

    あ、あそこも面白そうだ。

    一本、路地に入る。

    すると、また違う景色が見えてくる。

    こういう時、私はなかなか引き返せない。

    知らない街の、何でもない風景が好きなのだ。

    地元の人が買い物をしている店。

    小さな食堂。

    古い看板。

    店先に並んだ、用途のよくわからない生活用品。

    観光名所でも何でもない。

    でも、そういう場所に、その街で暮らしている人たちの時間がある。

    つい足を止めてしまう。

    そして、気づけば宿とは反対方向に歩いている。

    スマートフォンを見る。

    あれ。

    ずいぶん遠くまで来たな。

    別に迷ったわけではない。

    現在地はわかっている。

    帰り道もわかっている。

    ただ、帰る気がなかっただけである。

    これを迷子と呼ぶのは、少し違うと思う。

    寄り道のプロ。

    そう呼んでいただきたい。

    ……いや、そんな肩書きは別にいらないか。笑


    結局、今日も予定どおりにはいかない

    考えてみると、台湾ではずいぶん余計なことをしている。

    飲み物を買いに行けば、コンビニで迷う。

    昼食を食べようとすれば、メニューの漢字とにらめっこする。

    交差点ではスクーターのエンジン音を聴いている。

    朝食では食べすぎる。

    そして仕事帰りには、知らない路地へ入っていく。

    何をやっているんだ、私は。

    でも、こういう時間が嫌いではない。

    むしろ、少し楽しい。

    若い頃、海外に出ると、いつも何かを吸収しなければと思っていた。

    音楽も、言葉も、仕事も。

    知らない場所にいる以上、何かを持ち帰りたかった。

    今も、その気持ちがなくなったわけではない。

    ただ、最近は、何の役にも立たない寄り道も悪くないと思うようになった。

    コンビニで迷ったことも、メニューを読み違えそうになったことも、スクーターの音に勝手にリズムを感じたことも。

    別に大した出来事ではない。

    帰国したら、きっと忘れてしまうことも多いだろう。

    それでも、こういう何でもない時間が、後になって妙に懐かしくなることがある。

    ギターだってそうだ。

    立派な演奏をした日のことより、スタジオの帰り道に誰かとくだらない話をして笑ったことの方を、よく覚えていたりする。

    人間の記憶というのは、なかなか勝手なものだ。

    さて。

    今日こそは、仕事が終わったら真っすぐ宿へ戻ろう。

    余計な買い物もしない。

    寄り道もしない。

    朝食も食べすぎない。

    そう決めた。

    ……ところで、宿の近くにまだ入ったことのないコンビニがある。

    あそこ、品揃えが少し違うんだよなぁ。

    ちょっとだけ覗いてみようかな。

    飲み物を買うだけだから。

    本当に。

    たぶん。笑



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