ライブはない。でも曲は30曲あった。
『Dizrythmia』を作った新しいSplit Enzは、
まだ完成したバンドではなかった。
第9章の最後に、そんなことを書いた。
Neil Finnはまだ若く、
Nigel Griggsも新しい。
Malcolm Greenも加入してまだ日が浅い。
Tim FinnとEddie Raynerは、
Phil Juddがいなくなったあとで、
新しい曲の作り方を探していた。
それでも『Dizrythmia』は完成した。
「Bold As Brass」が鳴った。
「My Mistake」が鳴った。
ライブにも出た。
イギリスのテレビにも出た。
ようやく、このメンバーでSplit Enzが
動き始めたように見える。
普通なら、ここから次のアルバムへ向かう。
ところがSplit Enzは、
やっぱり普通には進まない。
1978年。
いなくなった男が、帰ってくる。
Phil Juddが、戻ってくる
1978年1月。
Robert GilliesがSplit Enzを離れた。
ただ、この出来事は、
「Robertが辞めた」と書いてしまうと正確ではない。
当時の『Rip It Up』は、
もっと生々しく伝えている。
Robert Gilliesは、
Phil JuddをSplit Enzへ戻すために外された。
しかも、Philの復帰は
メンバー全員が賛成したものではなかった。
さらに当時のSplit Enzには、
7人を維持するだけの経済的な余裕もなかった。
その結果、
Robertが外れることになった。
第8章、第9章を書いてきたあとだと、
私はここで少し止まってしまう。
Philがいなくなった。
その場所にNeilが入った。
Mike Chunnがいなくなり、
そのベースの場所にNigelが入った。
Tim、Eddie、Noel、Robert、Malcolm。
そこにNeilとNigelが加わって、
『Dizrythmia』を作った。
そして、その次の年に、
Philが戻ってくる。
しかもPhilが戻った時には、
もうNeilがいる。
短い期間ではあるけれど、
Tim Finn。
Phil Judd。
Neil Finn。
この3人が、
同じSplit Enzにいたことになる。
後の歴史を知っていると、
かなり不思議なメンバー構成に見える。
けれど、それも長くは続かなかった。
1979年に『Rip It Up』がまとめたバンド史では、
Robertが1978年1月に離れ、
Philが戻り、その約3か月後には
Philも再び離れたと記録されている。
戻ってきて、また去っていった。
Phil JuddとSplit Enzの関係は、
一度の脱退できれいに終わるようなものではなかった。
「Charlie」は、出るはずだった
Philが戻ってきた頃、
もう一つ止まってしまったものがある。
「Charlie」。
『Dizrythmia』に入っていたTimの曲で、
ライブでも重要な曲になっていた。
実はこの曲、
1977年12月にシングル発売を目的として
録り直されていた。
ところが、出なかった。
イギリスのレコード会社Chrysalisの判断で、
発売は棚上げされた。
一曲を録り直す。
シングルとして出す準備をする。
でも、出ない。
1978年のSplit Enzには、
この「あとは出すだけだったのに」という話が
妙に多い。
ミュージシャンをやっていると、
これが結構こたえる。
作れないのなら、まだ諦めもつく。
録音まで終わっている。
本人たちも手応えがある。
あとは世の中へ出すだけ。
そこで止まる。
冷蔵庫までビールを取りに行って、
一本も入っていなかった時より、
もう少し深刻なやつである。
「Split Enzは解散した」という噂
1978年になると、
Split Enzは外から見てかなり静かになった。
ライブが少ない。
新しいアルバムも出ない。
Philは戻ってきたと思ったら、
またいなくなった。
そのため、
「Split Enzは解散したらしい」
という噂まで出始める。
1978年5月の『Rip It Up』には、
わざわざこんな見出しの記事が載った。
「No Enz Split」。
Split Enzは解散していない。
彼らはLondon周辺で暮らしながら、
レコード会社とマネージメントの問題を整理し、
次のアルバムを作ろうとしていた。
そして、この短い記事の中に、
妙に豪華な名前が出てくる。
Ray Daviesが、Split Enzを作っていたかもしれない
The KinksのRay Davies。
彼がSplit Enzのプロデュースに
興味を示していた。
さらにJethro TullのIan Andersonも、
彼らをMaison Rouge Studiosへ招き、
シングル用のデモを作らせている。
結局どちらも、
次のSplit Enzのアルバムを
プロデュースすることにはならなかった。
でも、
もしRay DaviesがSplit Enzを録っていたら。
ちょっと聴いてみたかったなあ、と思う。
Tim自身、
Split EnzのルーツとしてThe BeatlesやThe Kinks、
The Moveの名前を挙げていた。
そのThe KinksのRay Daviesが、
今度はSplit Enzを録る側になるかもしれなかった。
歴史には時々、
あと半歩だけ違う方向へ進んでいたら、
まったく別のレコードが残っていたかもしれない、
という瞬間がある。
これは、その一つだった。
曲はある。でも出すところがない
さらに問題があった。
Chrysalis Recordsとの関係だ。
当時の『Rip It Up』によれば、
Chrysalisが求めていたのはシングル。
Split Enzが作りたかったのは、
次のアルバムだった。
結局、両者は別れることになる。
マネージメントとの関係も一度切れた。
イギリス側のマネージャーJohn Hopkinsとは
その後また組むことになるけれど、
この時期の彼らには安定したレコード契約がなかった。
1978年9月には、
それを象徴するような小さな記事まで残っている。
Split EnzがManchesterで
レコーディング・セッションを終えた。
どうやら、
かなり良いシングルができたらしい。
ところが、その記事は
なんとも言えない一文で終わる。
誰がそれを発売するのか分からない。
曲はある。
録音もした。
でも、
誰が出すのか分からない。
1978年のSplit Enzを説明するなら、
これ以上分かりやすい話もない気がする。
ライブはない。でも曲は30曲あった。
レコード会社が安定しない。
マネージメントも揺れる。
ライブもほとんどない。
でも、
曲は作っていた。
1978年11月の時点で、
Split Enzには約30曲の新曲があった。
後から数えた数字ではない。
当時の『Rip It Up』の記事に、
すでにその数が出ている。
レコード会社がない。
ライブも少ない。
お金もない。
でも、
曲は30曲ある。
なんだそれ、と思う。
でも、少し分かる気もする。
仕事がない時ほど、
ギターを触ってしまうことがある。
誰に頼まれたわけでもないのに曲を作る。
使い道も決まっていない。
録音する予定すらない。
それでも、
「これ、ちょっといいかも」
と思ったフレーズを忘れたくなくて、
何かに残しておく。
今ならスマホで済む。
1978年の彼らには、
もう少し面倒な方法しかなかった。
だから録る。
Lutonで、3日か4日
1978年6月。
Split Enzは、
EnglandのLutonにあるQuest Studiosへ入った。
Tim Finn。
Neil Finn。
Eddie Rayner。
Noel Crombie。
Nigel Griggs。
Malcolm Green。

この6人で録音されたものが、
ずっと後になって、
『The Rootin Tootin Luton Tapes』
として世に出ることになる。
ただし、この時点では
正式なアルバムを作っていたわけではない。
次のアルバムへ向けたデモ録音だった。
ところが、そのデモの作り方がいい。
Eddie Raynerの回想によれば、
使ったのは古い8トラックのテープ・マシン。
全員が、
小さく四角い、ほとんど響きのない部屋に入った。
そして、
3日か4日で約26曲。
録音して、
ミックスまでやった。
Noelはトイレ。EddieはDrambuie。
さらに話はおかしくなる。
Noel Crombieは、
トイレでパーカッションを録音した。
音を分離するためだったのだろうけれど、
Split Enzの場合、
「Noelがトイレで何かを叩いていた」
と言われても、
あまり違和感がない。
そしてEddieは後年、
このセッションについて、
もう一つ妙なことを書いている。
一日中、
Drambuieを飲んでいた。
古い8トラック。
狭い部屋に6人。
Noelはトイレ。
EddieはDrambuie。
それで3〜4日間に約26曲を録音して、
ミックスまでした。
何だかもう、
ちゃんとしたアルバム制作より楽しそうである。
しかもEddieは後になって、
このLuton Tapesこそ、
自分が最も好きなSplit Enzの録音だと振り返っている。
Geoff Emerickはいない。
豪華なスタジオでもない。
時間もない。
古い8トラック。
トイレ。
酒。
でも、音が残った。
高価なスタジオと長い制作時間があれば、
必ず良いものができる。
……とは限らないらしい。
これは50代になって、
妙に分かるようになった。
若い頃は、
良い機材があれば良い音が出ると思っていた。
今は少し違う。
もちろん機材は大事だ。
でも、その日の空気とか、
一緒にいる人とか、
誰かが変なことを言って笑った直後とか。
そういうものまで、
なぜか録音には入る。
音って、意外と正直だ。
29年後に出た、1978年のSplit Enz
このLutonの録音は、
長いあいだ正式なアルバムにはならなかった。
そして2007年11月。
録音から29年経って、
『The Rootin Tootin Luton Tapes』
として正式に発売された。
通常盤には、
「Miss Haps」
「Home Comforts」
「Animal Lover」
「Carried Away」
「Semi Detached」
「Holy Smoke」
「Message Boy」
「Hypnotised」
「Late In Rome」
「Straight Talk」
「Hollow Victory」
「Evelyn」
「Best Friend」
「Creature Comforts」
「Remember When」
が収録された。
さらにFrenz of the Enz向けの2CD版には、
「Hermit McDermitt」
「Betty」
「I See Red」
「Mind Over Matter」
「Next Exit」
「She Got Body She Got Soul」
「So This Is Love」
「Abu Dhabi」
「Famous People」
「I’m So Up」
「Marooned」
「Livin’ It Up」
「Frenzy」
なども収められた。
タイトルを眺めているだけでも分かる。
次のアルバム『Frenzy』へ向かう曲が、
もうここにかなりいる。
でも、それだけじゃない。
後にB面へ行く曲。
何年も経ってから出る曲。
形を変える曲。
そのまま置いていかれる曲。
いろいろある。
だから私は、
『The Rootin Tootin Luton Tapes』を単純な、
「『Frenzy』のデモ・アルバム」
だけでは終わらせたくない。
1978年のSplit Enzが、
正式なアルバムという箱に入る前に、
床いっぱいに広げていた音。
そんな感じがする。
デモのほうが、正式盤へ戻ってきた
そして、このデモには後日談がある。
これが面白い。
1979年に『Frenzy』が発売される。
ところが1981年のA&M版では、
アルバムがリミックスされただけではなかった。
The Manorで録音された一部の音源が、
1978年6月のLutonデモに差し替えられた。
つまり、
デモを作る。
正式版を録る。
アルバムを出す。
そのあと、
「やっぱり、あのデモのほうでいこう」
となった曲がある。
音楽を続けていると、
これが妙によく分かる。
ちゃんと録り直したのに、
「あれ?」
となることがある。
クリックも合っている。
音もきれい。
ミスもない。
ギターもちゃんと弾けている。
でも、
最初に適当に録ったテイクのほうがいい。
ある。
悔しいくらい、ある。
演奏の正確さと、
その瞬間にしか出なかったものは、
必ずしも同じじゃない。
1978年の小さな部屋で録ったSplit Enzにも、
後から同じようには作れなかった何かが
入っていたのだと思う。
さらに家では、もっと変なことをやっていた
Lutonより、
さらに小さな録音がある。
スタジオですらない。
家だ。
1978年。
Neil FinnとNoel Crombieは、
EnglandのChorleywoodで一緒に暮らしていた。
そこで夜になると、
二人は同じ型のSonyのカセットデッキを2台並べた。
一台で録る。
それを再生しながら演奏して、
もう一台へ録る。
今ならパソコン一台で、
数秒で準備できる。
当時はカセットデッキ2台。
かなり原始的なオーバーダビングだった。
使うものも普通じゃない。
ギター。
鍋。
フライパン。
段ボール箱。
弓で擦ったシンバル。
Neilが「snake charmers」と呼んでいたものまで使った。
時々Timも参加した。
彼らは自分たちを、
Tha Nineez
と呼んだ。
レコード会社がなくても、音楽は作れる
Neilは後年、
この頃の状況をかなり率直に振り返っている。
Englandにいる。
レコード契約がない。
マネージャーもいない。
お金もない。
そして、
時間だけはたくさんある。
そこでNeilとNoelは、
夜になるとカセットデッキを並べた。
考えてみれば、妙な話だ。
Split Enzとしては、
かなり厳しい時期だったはずだ。
なのに家では、
20歳そこそこのNeilとNoelが、
鍋や段ボールを叩いて遊んでいる。
時々Timまで来る。
レコード会社がなくても、
音楽は作れる。
マネージャーがいなくても、
曲は作れる。
お金がなくても、
カセットテープがあれば何かは残せる。
もちろん、
それだけで生活できるわけじゃない。
そこは50代になると、
嫌というほど分かる。
でも、
音楽を作るという行為そのものは、
案外しぶとい。
カセットの中でしか生きなかった曲
Tha Nineezのテープには、
「Give It A Whirl」
「Famous People」
「Mind Over Matter」
「Holy Smoke」
「Message Boy」
など、
後のSplit Enzへつながる曲の初期形が残っている。
でも、
全部が未来へ行ったわけではない。
「Judy」。
Timが歌ったこの曲は、
正式なスタジオ録音にもならなかった。
ライブでも演奏されなかった。
あのカセットの中だけに残った。
こういう曲もある。
むしろ、
そっちのほうが普通なのかもしれない。
作った曲が全部レコードになるミュージシャンなんて、
たぶんほとんどいない。
私にも、
どこにも行かなかったフレーズが山ほどある。
録ったことすら忘れているものもある。
たまに昔のデータを開くと、
「誰だ、これ弾いたの」
と思う。
自分なんだけど。
ギターケースの中に、
昔の弦が一本だけ残っているみたいに、
曲にも、
どこにも行かなかったものがある。
でも、何十年も消えなかった音もある
逆に、
驚くほど長く残ったものもある。
Tha Nineezで録音されたスケッチの一つは、
後の「Catherine Wheels」へつながっていく。
1978年に残された小さなアイデアは、
1989年、NeilとTimのセッションで再び姿を見せた。
それでも、まだレコードにはならなかった。
さらに4年が過ぎた1993年。
ようやくCrowded Houseの
『Together Alone』に収録され、
「Catherine Wheels」として世に出る。
最初のスケッチから、15年。
15年前にカセットへ残した音を、
まだ捨てずに持っていたことになる。
別のスケッチは、
もっと長くTimの中に残った。
「Disembodied Voices」。
正式に世に出るのは2004年。
Finn Brothersの
『Everyone Is Here』だった。
さらにTha Nineezは、
「Fraction Too Much Friction」
の初期デモまで録音している。
Tim Finnがソロでこの曲をヒットさせる、
5年前だった。
曲って、
いつ完成するんだろう。
1978年にカセットへ入れた小さな音が、
本人のどこかに残っている。
忘れたように見えて、
消えていない。
十年以上経ってから、
「あれ、これ……」
と戻ってくる。
ギターを長く弾いていると、
似たようなことがある。
昔覚えたコード。
昔弾いたフレーズ。
誰かの横で何となく覚えた音。
完全に忘れていたはずなのに、
ある日突然、
指のほうが先に思い出す。
頭では忘れている。
でも、
身体のどこかには残っている。
音には、
そういうところがある。
そして「I See Red」が見えてくる
1978年後半。
Split Enzは、
次のアルバムへ向けて録音を続けていた。
この頃になると、
『Dizrythmia』までの少し入り組んだ音とは違う、
もっと速くて、もっと直接的な音が目立ち始める。
その変化が一番分かりやすい曲の一つが、
「I See Red」だ。
Tim Finnが書いた曲で、
後にはSplit Enzのライブを代表する曲の一つになっていく。
とにかく速い。
ピアノもギターもベースも、
少し前のめりになって走っているように聞こえる。
『Dizrythmia』の「Bold As Brass」にも、
それまでより直接的なSplit Enzは見えていた。
でも「I See Red」まで来ると、
もう遠慮がない。
考え込むより先に、
身体が動くような曲だ。
そして、
ここが少しややこしい。
「I See Red」は、
この時期に作られた曲なので、
『Frenzy』の代表曲として扱われることが多い。
実際、
後に発売された『Frenzy』には収録されている。
ところが、
1979年に最初に発売された『Frenzy』には入っていなかった。
当時はアルバムとは別に出た曲だった。
だから、
昔のオリジナル盤を知っている人と、
後年の『Frenzy』を聴いた人では、
この曲に対する感覚が少し違う。
後から聴いた私たちには、
「I See Red」と『Frenzy』はかなり近いところにある。
でも1979年当時のリスナーが、
最初に手にした『Frenzy』を開いても、
そこに「I See Red」はいない。
この曲が後からアルバムに加わったことで、
今では最初からそこにあったように見えている。
Split Enzの歴史を追っていると、
こういうことが時々ある。
同じタイトルのアルバムなのに、
いつ、どの国で出た盤を聴いたかによって、
少しだけ見えている景色が違う。
止まっていた一年ではなかった
1978年。
正式なスタジオ・アルバムは出なかった。
Robertがいなくなった。
Philが戻ってきた。
そのPhilもまたいなくなった。
「Charlie」はシングル用に録り直したのに、
発売されなかった。
Ray Daviesがプロデュースする可能性もあった。
Ian Andersonのスタジオでもデモを作った。
レコード会社との関係が切れた。
マネージメントも揺れた。
Manchesterでは、
良いシングルができたらしいのに、
誰が発売するのか分からなかった。
解散説まで流れた。
ライブも少なかった。
外から見れば、
Split Enzが止まっていた一年に見える。
でも実際には、
約30曲の新曲があった。
Lutonでは、
3〜4日で約26曲を録った。
Noelはトイレでパーカッションを録った。
EddieはDrambuieを飲んでいた。
NeilとNoelは家で、
カセットデッキを2台並べて遊んでいた。
そこには、
何十年も後まで残る音まで入っていた。
そして、
「I See Red」が見え始めている。
止まっていなかった。
むしろ、
音だけはずっと動いていた。
1978年のSplit Enzには、
ちゃんとした居場所がなかったのかもしれない。
レコード会社との関係は揺れ、
マネージメントも安定しない。
ライブの数も少なく、
作った曲が誰から発売されるのかさえ分からない時期があった。
それでも、
曲を作ることだけはやめなかった。
古い8トラックに録った。
家ではカセットデッキを2台並べた。
Noelはトイレでパーカッションを録った。
正式なアルバムになるかどうかなんて、
その時には分からなかった曲もたくさんあったはずだ。
実際、
そのまま消えていった曲もある。
別の形で残った曲もある。
何年も経ってから、
まったく違う場所で再び音になったものもある。
そう考えると、
1978年を「アルバムが出なかった一年」とだけ呼ぶのは、
やっぱり少し違う気がする。
表から見ると、
Split Enzはあまり動いていない。
でも、その見えないところでは、
TimもNeilもEddieも、
みんな次々と音を作っていた。
レコード会社がなくても、
ライブがなくても、
出す場所が決まっていなくても、
曲だけは増えていった。
約30曲。
その数字を見ていると、
彼らがこの一年をどうやって過ごしていたのか、
なんとなく見える気がする。
50代になった今なら、
少しだけ分かる。
何かがうまくいかない時に、
無理に答えを出そうとするより、
とりあえずギターを持っていたほうがいい時がある。
何の役に立つのか分からなくても、
一つ音を残しておく。
その時は使わなかった音が、
ずっと後になって戻ってくることもある。
戻ってこないこともある。
たぶん、
それでいい。
1978年のSplit Enzには、
次に何が起きるのか分からなかった。
でも、
古い8トラックと何本かのカセットテープには、
その一年を生きていた音がちゃんと残った。
表からは静かに見えた一年。
どうも中では、
ずいぶん騒がしかったらしい。

