“帰国と、止まらない日本での現実”
◆ 成田に戻った瞬間、胸の奥がきゅっと鳴った
飛行機のハッチが開いて、湿った日本の空気が流れ込んできた瞬間、体が「帰ってきた」と勝手に理解した。LAの乾いた砂埃の匂いでもなく、サンタモニカの潮風でもなく、成田のあの独特の湿り方。あれをまとった瞬間、気持ちが一気に地上へ降りていく。
スーツケースを引く手が、軽いようで重い。あの1年半のLA生活の続きに戻れるわけではない。ここからは、また“別の現実”だ。
飛行機の中で考えていたことが、着陸の振動と共に胸の下からせり上がってきた。父が早急に戻って来いと言っていた理由…
――母の体調。
膵臓癌ステージ4という病名に、重さを貼り付けず説明するのは難しいが、当時の自分にとっては「自由に動き回る生活とはしばらく縁が切れる」という現実だけが静かに残った。病院に寄る時間、家の中でのサポート、急な連絡への対応。それらは“特別”ではなく、ただ状況として自然に受け入れただけだ。
でも、音楽活動へ向けるエネルギーはどうしても削られた。LAの頃のように、気まぐれな夜の思いつきでスタジオに飛び込む、あの勢いは封印したまま成田へ降り立っていた。
◆ 落ち着く間もなく、“地獄”の職場へ
帰国して数日もしないうちに、LAでお世話になった翻訳会社の社長から電話があった。
社長「しばらく仕事があるから。お前ならできるよ、日本でも。」
その言い方は軽かったが、その“軽さ”が逆に救いだった。LAの生活の余韻がかすみながら消えていくなかで、現実的に最も必要なのは収入だった。音楽だけで攻めるには、タイミングが悪すぎる。
そして、社長が紹介してくれたJ社に向かった初日。そのオフィスの空気を吸った瞬間、脳が警告を鳴らした。
――これは地獄の匂いだ。
蛍光灯の色が妙に白くて、みんなの顔色を悪く見せていたのか、本当に疲れていたのか。デスクに積まれた書類の山は、座る場所さえ奪う勢いだった。
担当者は開口一番、こう言った。
担当者「これ、前任者が倒れて連絡つかないんです。残り全部よろしくお願いします。大丈夫ですよね? LA帰りなんですよね?」
“LA帰り”という謎の魔法の言葉。それさえあれば、何でもできると思われている節があった。
私「……全部、ですか?」
担当者「ええ、全部です。助かります!」
助からないのはこっちだ。
納期は絶望的。前任者のメモは読めない。専門用語は辞書を引いても出てこない。クライアントは平気で仕様を変えてくる。
初日から徹夜。二日目、胃が締め付けられる。三日目、背中が固まって前屈みのじいさんのようになる。
自分がLAで積んだ「ギタリストとしての実感」や「通訳扱いされた妙な経験」なんて、この場所では何の役にも立たなかった。
ただ、こうして生活は回っていくのだという事実だけが、雑味の強いコーヒーのように喉に残った。
◆ 翻訳・通訳を続ける本当の理由
LAの翻訳会社社長が日本側に顔を利かせてくれたおかげで、仕事は途切れず入ってきた。自分が返事をしなくても、「次はこれを」と机に置かれていく感覚すらあった。
自由はない。余裕もない。それでも、この収入が必要だった。
母の状況を考えれば、無茶な挑戦はできない。
音楽はいまだ収入として安定していない。
(そして実のところ、昔から英語の“意訳”の感覚には自信があったし、文章を書くことだけは不思議と苦ではなかった。だから、音楽を無理に一本の道にしなくても、仲間と楽しみながら関わる形で続けていく未来も、どこかで受け入れていたのかもしれない──そんな曖昧な思いも胸の奥にあった。)
――だから辞めなかった。
というより、辞められなかった。
◆ “LA帰り”への妙な期待が、少しずつ心を削る
当時はまだ、海外経験を少し神格化するような空気があった。
だから、自分のキャパに見合わない仕事まで回ってくる。
英語ならできるよね?
急ぎだけど平気だよね?
通訳もできるよね?
専門分野じゃないけど大丈夫だよね?
LAで働いてたんでしょ?
全部、勝手なイメージの押しつけだった。
最初のうちは踏ん張れた。だが、無理が続くと、表情の筋肉が固まっていくのが自分でも分かった。
仕事帰りにギターケースを抱えて帰る日、ふと重さが変わった気がした。中に鉛でも入ってるんじゃないかと思うほど、指先が音に触れる前に疲れていた。
◆ それでも手放さなかった“音の場所”
そんな日々の中でも、仲間と軽く集まるセッションだけは欠かさなかった。そこだけは、自分の呼吸がそのまま音に変わる場所だった。
LAで鍛えた指は少し鈍っていた。でも、音を出した瞬間、体の奥にしまっていた感覚がゆっくり戻ってくる。
セッションを終えて帰る道、家の近くの電柱の影がやけに長く伸びて見えた。その影を見ながら、ふと思った。
――これからは、こうやって“人の音に寄り添う”生き方になるんじゃないか。
だんだん気付いていた。バンドマンとして前へ押し出すのではなく、
“誰かの背中を静かに支えるような役割”のほうが、自分には向いているのかもしれないと。
◆ 1999年、日本で始まった新しい生活
LAの光の強さは、帰国して数週間で薄れた。かわりに、日本での“現実の強度”が手のひらの皮を厚くしていく。
自由は減った。責任は増えた。仕事は過酷だった。
それでもギターのネックは、手のひらに収まる。その温度だけは、世界が変わっても変わらなかった。
――この先どう転んでも、また静かにしぶとく鳴らしていけばいい。
こうして、1999年の“帰国後の人生”は静かに動き始めた。🎸✨
